「なぜSNSは「不毛な議論」ばかりなのか…その背後にある心理とは」
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■伝説のディベーターが「良い議論」を問う
競技ディベートとは、一定のルールに則ってチーム対抗で議論を行ない、勝敗を決めるゲームである。海外では欧米を中心に教育の一環として行なわれているところが多い。世界から参加者を募って開催される国際大会もたくさんある。そうした国際大会の世界チャンピオンと言えば、どんな人物を思い描くだろうか。
本書の著者は、競技ディベートの世界大会で高校・大学と2回チャンピオンになり、オーストラリアのナショナルチームとハーヴァード大学のチームのコーチも務めた人物だ。ディベート界で彼の名前を知らない人はいないだろう。そんなレジェンドが「議論」について本を書いたと聞けば、おそらく「議論で勝つ」ためのスキルについて書かれたものだと思うのではないだろうか。
ところが本書はそういう本ではない。原題はGood Arguments、問いかけているのは良い議論とは何かということだ。それは著者によれば、「意見の相違があるほうが、ないよりも良い結果をもたらすように」行なう議論のことである。
■相手を論破することは自己満足にすぎない
私たちは日々、意見の相違に直面している。政治や社会問題といった大きなテーマで対立することもあれば、家族や友達とちょっとしたことで言い争ったりする。だが、良い議論ができれば、意見の相違によってより良い社会、より良い人間関係が築けるのではないか。そして、競技ディベートのスキルは良い議論をするために役立つのでないか。著者はそう主張する。
議論に勝つのは気持ちがいい。相手を論破するのは、論破する本人にとっても、同じ側に立って見ている人にとっても、おそらく楽しい経験だろう。だが、それによって事態はよくなったか。何のためにも、誰のためにもならないなら、それは自己満足にすぎず、良い議論ではない。
SNS上の活発なやり取りも、中身を見ればそれぞれが言いたいことを言っているだけで、話し合いの体を成していないことが多い。それどころか各人の怒り――アリストテレスは怒りには喜びが含まれると言っている――が負の連鎖を生み出していることも少なくない。こうした時代だからこそ、異なる意見を上手に言いあうことが求められているのではないだろうか。
■世界大会の決勝戦、沸く聴衆
8歳のときに韓国からオーストラリアに移住した著者は、当初は英語が話せなくて人と議論するのを避けていたが、先生に誘われて参加したのがきっかけでディベートにのめりこんだ。本書は、ディベートから多くを学び、世界の頂点にまでのぼりつめた著者が、自身の半生を振り返りながら、良い議論についてつづったものだ。
競技ディベートを見たことがないという方は、まずは実際の試合をYouTubeでご覧いただきたい。本書の第5章で描かれている、2016年にテッサロニキで開催されたワールド・ユニヴァーシティズ・ディベーティング・チャンピオンシップ(WUDC)の決勝戦だ。
試合が始まるまえから会場は沸いている。チームが紹介されるたびに拍手が鳴り響く。向かって左から2番目の席についた著者と相棒のファナーレ・マシュワマ氏は顔を寄せ合い、作戦会議を続けている。
論題が読み上げられ、一番手の著者はおもむろに立ち上がり、ゆっくりと歩いて演台につく。それまでとは打って変わって静まりかえる聴衆を前に、著者はスピーチを始める。よくとおる低い声で最初はゆっくりと一語一語、聴衆に語りかけるように、主張を伝えていく。
■競技ディベートは「知のスポーツ」
スピーチは次第に熱を増し、途中相手チームから入るPOI(質疑応答)をさばいて観客からは歓声があがる。著者は本文中で、最後は足が震え、声もかすれたと書いているが、見ている限りそんな様子はまったくうかがえない。終始堂々としたスピーチだった。
そして、マシュワマ氏は演台に立ち、話しはじめるかと思いきや「ちょっと待ってください」と手にしたジャケットを着こみ、時間をかけてメモを並べ替える。そして軽く咳払いをしてから話しはじめ、やや早口で手ぶりを交えながら迫力あるスピーチを繰り広げる。終えたときには盛大な拍手と歓声があがる。そして、結果は本文にあるとおりだ。
もし言葉がわからなくても、世界最高峰の戦いの熱気が伝わってくるはずだ。競技ディベートが「知のスポーツ」であることを実感してもらえると思う。
■エンパシーとシンパシーの決定的違い
冒頭で述べたとおり、このディベートを教育の一環として取り入れている国は多い。ディベートで勝つためには知識、論理的思考力、プレゼンテーション力のほか、チームで対戦するのでチームワークも必要となる。
試合形式には、事前に準備してのぞむ準備型と試合当日に論題と立場を与えられる即興型があり、準備型なら調査力、即興型なら瞬発力も鍛えられる。さまざまなスキルが身につくのは容易に想像できるが、より良いコミュニケーションの観点から、ここではディベートで養われるエンパシーと聞く力に注目したい。
競技ディベートでは、論題に対する各チームの立場(肯定または否定)は指定され、自分では選べない。つまり自分の考えとは違っていても、勝つためには与えられた立場で聞いている人を納得させなければならないのだ。そのためにはエンパシーの力がいる。
このエンパシー、日本語では「共感」と訳されるが、日本語で共感というとシンパシーを指すことの方が多い。エンパシーとシンパシーは違う。どちらも他者の考えや感情を共有することを指すが、ある程度相手と同じ気持ちになることを前提とするシンパシーに対して、エンパシーは同じ気持ちになる必要はない。求められるのは、理性的に他者を理解しようとする姿勢だ。シンパシーに後押しされて噛み合わない議論が多い今、エンパシーの重要性は増しているように思う。
■コミュニケーションの第一歩は「聞く」こと
もう一つは聞く力だ。競技ディベートには反駁のパートがある。第三者の審判を説得するためには、自分たちの意見を述べるだけではなく、相手の意見に適切に反論する必要がある。
そのためには、何よりもまず相手の話をよく聞かなければならない。相手の主張を理解せずにやみくもに反論しても誰も説得できないだろう。相手の言うことを聞いて理解する。簡単そうでいて実践するのは難しい。だが、これこそコミュニケーションの第一歩ではないだろうか。このエンパシーと聞く力、今の時代に特に求められているように思う。
■日本人にも門戸が開かれている
翻って、日本のディベート事情はどうだろう。残念ながら、欧米のように普及しているとは言いがたいが、ディベートの普及を目指して活動している団体は複数あり、全国規模で大会を開催しているところもある。
先人たちの地道な活動が奏功したのだろう、世界大会で活躍する日本人も出てきている。先ほどご覧いただいたWUDCには、オープン部門(英語を第一言語とする話者の部門)、ESL部門(英語を第2言語とする話者の部門)、EFL部門(英語を外国語とする話者の部門)があり、英語圏以外の学生も参加できる。
言葉の壁もあってなかなかいい成績を収められなかった時代も終わりつつあり、近年はESLやEFLでの上位入賞だけではなく、オープン部門でも決勝トーナメント進出という実績が生まれている。
さらに、最近注目すべき変化があった。高校の学習指導要領において、2022年度から英語の「論理・表現」という科目が新設され、そのなかの活動例にディベートが含まれることになったのである。今はまだ実践する教育現場は少ないようだが、ディベートには先ほど述べたとおり、さまざまな効用がある。今後はディベートを授業に取り入れる学校が増えるかもしれない。そうなればディベート人口も増えていくだろう。
■世界を立て直すための道具にできるか
では、こうしたディベートが広まれば、私たちは良い議論ができるようになるのだろうか。それは一人一人がどう議論に取り組むかにかかっている。
著者が言うように、ディベートは人と人の対話というきわめて人間的なものであり、スタートアップビジネスのように「スケール」するものではない。一つ一つの対話を良いものにして積み重ねていくしかないのだ。
本書の第6章で見たような「いじめっ子」に遭遇することもあるだろう。しかし、不安と不満のあらわれとしての議論から、世界を立て直すための道具としての議論に転換できるかどうかは、私たち一人一人にかかっている。
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翻訳家
慶應義塾大学法学部卒業。主な訳書にバージス『欲望の見つけ方』、ロブ『夢の正体』(早川書房)、ローゼンタール『奴隷会計』、ローゼンフェルド『給料はあなたの価値なのか』(みすず書房)など。
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韓国系オーストラリア人のジャーナリスト、作家、ディベーター。オーストラリア代表チームとハーヴァード大学ディベートユニオンの元コーチ。2013年にWSDC(世界学校ディベート選手権)で、2016年にはWUDC(世界大学ディベート選手権)で優勝。清華大学で公共政策の修士号を取得。現在は《オーストラリアン・フィナンシャル・レヴュー》の記者をしながら、《ニューヨーク・タイムズ》や《アトランティック》など多くの媒体に記事を寄稿。
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(出典 news.nicovideo.jp)
J,C,F そもそもその場に参加しようとする動機からして違うんじゃないかな。議論は自分の主張がありながらも相手の主張を否定せず、互いが互いにとってより良い結論を出そうとする意思があって初めて成立する。SNSとかのアレは誰かの発言に対して単に自身の観点からそれは違うと否定し合うだけで不毛なのよ。あと議論相手だけじゃなく聴衆に対しても納得させられる内容で述べられるかも大事。 |
CMRY ニコニコ大百科に ヘイト消費 という独自研究の記事があるのだが、大体のSNS上の議論はこれ。単にネットで議論に勝つには受けるより殴り返した方が早いのだが議論そのものを終わらせるには一々反駁して論拠を潰して行くしかない。・・・早く「それはヘイト消費ですよ」の一言で話が終わるように、この言葉が一般化して欲しい。 |
verlies SNSではお互いに意見を披露・陳列しているだけで、結論や合意を目指してはいない。キャッチボールではなく雪合戦のようなもの。それを議論と見做して枠に嵌めようとすると不合理にも見えるだろうね。けれど、好き勝手に放られた意見からも学び取ることはできるので、完全な無駄ではない。 |
kikori SNSで起きてるのは議論ではなくマウント。一個人の一意見に対してこき下ろして満足しようとマウント取ってるだけ。無論冷静に議論して互いの意見を尊重してる人もいるけど相当珍しい。不毛と言われるタイプは基本的にマウンティングです。人間は主観的な経験でしか語れないので他人の経験を想像する事はかなり難しい。意見が合わないのは当然だが、それを理解できない人が多い |
タマサブロウ 古くは朝生がエンタメとして放送されてたことで、「議論とは食い気味に相手の発言を封じて力ずくで抑えること」という間違った認識が広まったと思う。その後、ひろゆきが論破王と呼ばれ、「屁理屈でも相手を黙らせたら論破」と勘違いする奴らが続出した。 |
ぽん太郎 頭沸いてる様なやつが主張してれば不毛だろ…、議論っていう形にもならないし、肯定も上手く活用できてないのに議論とか…指摘されても話逸らしたり誤魔化したりして認めた上での反論もできないのに…時間の無駄だと思う。議員でもそういう方いるみたいで…議論もできず素人に打ち負かされ指摘される様な議員の議とはいったい… |
一夜 SNSなんて承認欲求の強いイキリが自己満足のために無責任な罵倒を行うだけの場だろ?それを「議論の場」なんて考えている時点で「知」が無いのでは?そして逆に競技ディベートとやらは「議論をしたくて集まっている輩が望み通りに議論する場」だろ?前提条件がまるで違う。君は戦国の弓矢鉄砲が飛び交う戦場の剣術と、現代の武道館で行われる剣道とでどちらの剣が上手いか競うのかね? |
kbn いわゆるディベートとSNSのレスバはそもそもが違う。ディベートとはブレストみたいなもので、互いの説の欠陥を挙げていって補強するのが目的と言ってもいい。極端な話相手の主張を成立させるために粗探しをする、論破とは真逆の手法のこと。レスバは自分にとって必要な主張だけできれば後は黙っていたほうがいい。黙れないからボロも出るし、くだらない言い合いになってしまう。 |
Ricker 別に議論の場でも何でもないからな、そう銘打って部屋でも作ったならまだしもこの場はチラシの裏でしかない。議論どころか本題関係なくそこに居る人間を罵倒する事が目的の人間が居るような場所。ディベートとは全く違うからそう定義するだけ無駄だよ、どっかの他人が書いた文章拾って自分の言葉として「話してるつもり」になってるだけ。ウェルカムクレタ島。 |
かぷりこ 数か月前からリサーチする論証、試合の数十分前にテーマを受ける即興。この2つだけでも別物なのに何でそれとSNS合体させて論じるの?某教授曰く「論証は学術的な訓練になるが即興は詐欺師の素質が必要だ」あっ |
ロルフェス 不毛じゃない議論ってのは物事を動かせる立場にいる人間がするもので、外野の門外漢がああした方がいいこうした方がいいなんて勝手に意見してるのはスタンスがどう変わったところで不毛なものだよ。結局は発言権があるかどうか、何を言うかより誰が言うかでしかない。 |
nest 一方に議論する気があろうと耳が痛いこと言われたらブロックして耳をふさいで目を瞑ってしまったら議論にすらならんからな。その点はプレオンさんもどっこいだよな。なにせ記事で好き勝手他人を罵倒したり風評を流布して、意見されても見ることもせずだからね。 |
9-128 まあタイトルが物語ってるわな。他人の発言に中国の翻訳記事張りにレッテル張って「なぜ自分の思うようではないのか、正しくは私の言うようなものでなくてはならない」とかガソリンぶっこめば「お前何言ってんだ」と第二ラウンドが始まるもんよ。不毛だ。だがガス抜きとしてはそれでもいい。よそに飛び火さえしなけりゃね。 |
クレイ爺さん 議論にしろなんにしろ衝突した以上、第一目標は相手を屈服、制圧する事でしょ。自分と考え方が違うんだから。何言ってるか全く理解できないんだが。記事の内容は「それってただの馴れ合いですよね?」で終わる話 |
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