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    安倍晋三


    思想と歴史から見る「暴力」の複雑さと真実


    専門家「背後を警備していないのは有り得ない」安倍元総理銃殺事件". TBS. 2022年7月11日. 2022年7月11日閲覧。 ^ "安倍晋三元首相が凶弾に倒れる 容疑者が使用した「手製の銃」の殺傷力". 日刊ゲンダイDIGITAL. 2022年7月8日閲覧。 ^ "安倍晋三氏銃撃事件で使われたのは手製の銃か 専門家「黒色火薬を使用か」"…
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    暴力反対が間違っている理由は、暴力によって問題を解決しようとすると、新たな暴力が生まれる恐れがあるからです。暴力は悪循環を生み、一時的な解決に過ぎないことが多いです。

    「前提にあるのは『どんな人も暴力を発現させる力を持っている』ということです。暴力的な出来事が発生したときには、自分はどんな立場にあるのかを考えなくてはいけません」と語る森 元斎氏
    「前提にあるのは『どんな人も暴力を発現させる力を持っている』ということです。暴力的な出来事が発生したときには、自分はどんな立場にあるのかを考えなくてはいけません」と語る森 元斎氏

    ハラスメントから性加害、紛争まで、「暴力」的な事象が続く昨今。「いかなる暴力も許されない」という言葉もよく聞く。しかし、そんな思考停止の暴力反対論に待ったをかけるのが『死なないための暴力論』だ。

    暴力にまみれたこの世界で力強く生き抜くために、暴力とどう向き合えばいいのか。著者の森 元斎(もとなお)氏に話を聞いた。

    【書影】『死なないための暴力論』

    * * *

    ――なぜ今、「暴力論」なのでしょうか? 本書執筆のきっかけを教えてください。

     2022年の安倍晋三暗殺事件がきっかけのひとつです。誰も正攻法では安倍晋三の悪事を断罪できなかったけれど、事件後には統一教会の問題も裏金問題も次々と明るみに出ました。「暴力では何も変わらない」という人もいますが、これは暴力で変わったと思われる事例のひとつです。

    実際、本書では暴力的な運動が世の中を改善してきた事例を多数紹介しています。全否定されがちな暴力というものの別の面を整理することが、本書執筆の目的です。

    ――治安の良い日本では、なかなか「暴力」を身近に感じることは難しいとも思いますが。

     当たり前と見なされていますが、日本政府による徴税と、その無駄遣いだって国民への暴力ですよね。ブラック企業による搾取も労働者にとっては暴力的ですし、男性優位な社会も女性にとっては暴力的です。こうした目に見えない暴力は、われわれの周りにもあふれています。

    加えて、本当に「日本は治安がいい」といえるのでしょうか。刑法上の検挙数は減ってきていますが、被害者が警察に訴えないケースも多いです。例えば、日本に暮らす女性で痴漢や性被害に遭ったことのある人はかなりの人数に上ります。「治安」をどういう視点でとらえるのかが非常に大切です。

    ――なるほど。しかし、日本では諸外国に見られるような暴動などといった治安の悪化はないように思いますが。

     暴動の有無で治安を論じるのであれば、「日本が最も治安の良かった時代は戦時中だ」ということもできます。その名のとおり「治安維持法」がありましたから。このように、治安という言葉を誰が使うかには注意すべきでしょう。

    一方で、私は暴動と政治は相関関係にあると考えています。日本が福祉を獲得していった時期には、暴動が非常に多かったんです。もちろん高度経済成長というファクターもありますが、1950~70年代は特にそうでした。

    ――先ほど挙げられた目には見えない暴力を、「構造的暴力」と表現しています。これはどういったものでしょうか。

     暴力を行使する主体がわからないままに、直接的あるいは間接的にわれわれに向けられている暴力が、構造的暴力です。

    本書では、「一人の夫が妻を殴ったら個人的暴力だが、百万人の夫が百万人の妻を無知のまま放置したら構造的暴力である」という、日本のアナキストである戸田三三冬(とだ・みさと)の説明を引用しました。

    女性を恒常的に「サブジェクト=下に置かれたもの」として位置づけることは、構造的暴力の最たる例です。

    ――世の中には「いかなる理由があろうと、暴力は許されない」と考える人が多いと思います。しかし、本書では暴力には否定すべきものと肯定せざるをえないものがある、としていますね。

     前提にあるのは「どんな人も暴力を発現させる力を持っている」ということです。暴力的な出来事が発生したときには、自分はどんな立場にあるのかを考えなくてはいけません。個人や民衆なのか、軍隊の力を背景とした国家なのか、資本力を持った企業なのか。

    こうした立場の非対称性、ヒエラルキー(階級)に注意するべきです。国家や企業などはヒエラルキーの上位であり、個人や民衆などは下位です。

    上位から下位に常に暴力が振るわれているのに対し、下位が抵抗のために振るう「反暴力」は、否定すべきでないというのが本書の立場です。

    ――本書では、「反暴力」はヒエラルキー上位からの暴力に対抗し、その暴力をなくしていくための暴力と定義されています。

     反暴力には、非暴力的な側面もあるし、暴力的な側面もあり、かなり包括的な概念です。その具体例として、メキシコの反政府組織である「サパティスタ民族解放軍(EZLN)」や、シリアでクルド人が起こした「ロジャヴァ革命」、アメリカにおけるブラック・ライブズ・マター(BLM)などについて書きました。

    これらは、自己防御しなければ自分や家族、友人が殺される、という状況下で起きた運動です。そういう場合には、暴力的抵抗は肯定されてしかるべきです。

    ――そうした海外の例から、日本に暮らす私たちが学べることはなんでしょうか?

     彼らの徹底した民主主義ですね。これは本当にすごいと思います。

    例えば、ロジャヴァでは女性たちがかなり力を持っています。同地域ではあらゆる議論の場で40%以上の女性の参加が義務となっています。日本も見習うべきですよね。また、ロジャヴァでは警察が半年ごとに交代します。

    半年間警察をやって、残りの半年は民衆と同じ仕事をするんですね。捕まえる側と捕まる側の立場がぐるぐる回るので、不当な警察権力を行使することが難しくなるんです。

    自分が警察官として横暴に振る舞っていたら、半年後に警察官になった被害者に復讐(ふくしゅう)されるかもしれませんからね。

    一方で、BLMにおいて、特にジョージ・フロイド事件以降の民衆の動きもすごいです。日本ではあまりニュースになっていませんが、横暴な警察の権力をなくしていこう!という勢いが増しています。

    ――知らず知らずのうちに暴力を振るわれる現代において、私たちは暴力をどうとらえ、どう向き合えばいいのでしょうか?

     われわれもまた、暴力をちらつかせるべきです。国家や企業などのヒエラルキー上位をビビらせることのない抵抗で喜ぶのは、ヒエラルキーの上位にほかなりません。

    誰にも迷惑をかけないお行儀の良いデモでは何も変わらないことは、ここ十数年でも証明されてきました。自分たちにもヒエラルキー上位をビビらせる力があることを示していかなければ、状況が改善することはないでしょうね。

    この点、諸外国ではここ十数年でどんどんラディカルな社会運動が広がっています。そこから学べることは多いと思います。

    ●森 元斎(もり・もとなお)
    1983年生まれ、東京都出身。長崎大学教員。専門は、哲学・思想史。博士(人間科学)。中央大学文学部哲学科卒業、大阪大学大学院人間科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員、パリ第十大学研究員などを経て、2019年より現職。現代思想やアナキズムに関する思想の研究を行なっている。著書に『具体性の哲学』(以文社)、『アナキズム入門』(ちくま新書)、『国道3号線』(共和国)、『もう革命しかないもんね』(晶文社)など

    ■『死なないための暴力論』
    インターナショナル新書 1012円(税込)
    「暴力反対」とはよく聞くが、世の中は暴力にあふれている。国は警察という暴力装置を持ち、国民から徴税する。資本主義は労働者を搾取し、格差を生み出す。家父長制は男性優位・女性劣位のシステムを作り上げる。一方で、こうした暴力に対抗して、社会を進歩させてきたのも、また暴力である。世の中にあふれる暴力には、否定すべきものと肯定せざるをえないものがある。世界の思想・運動に学びつつ、倫理的な力のあり方を探る一冊

    取材・文/中田 弦 撮影/繁延あづさ

    「前提にあるのは『どんな人も暴力を発現させる力を持っている』ということです。暴力的な出来事が発生したときには、自分はどんな立場にあるのかを考えなくてはいけません」と語る森 元斎氏


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    「NHKとネットを活用すれば民放不要」- 安倍ショックによる公平性排除の波紋が広がる


    1958年5月、父の安倍晋太郎が第28回衆議院議員総選挙に立候補し初当選した。幼いころは野球選手や、テレビを見て刑事になることに憧れていた。 成蹊小学校3年生の1963年11月、父の太郎が落選。このため両親は東京を離れ、選挙区の山口県にいることが多くなった。安倍家は寛信と晋三
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    NHKとネットがあれば民放は不要とは思えません。民放は地域に密着した情報やエンターテイメントを提供しており、それによって多様な視聴者のニーズに応えています。多様性が尊重されるメディア環境の構築が必要です。

     2022年に亡くなった、安倍晋三元首相が「嫌悪する」テレビに一線を引き、「好感する」ネットへと傾斜していった出来事とは――。放送法を権力者の都合のいいように改変しようとした「安倍ショック」の内幕を、ジャーナリストの根岸豊明氏の新刊『テレビ局再編』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

    安倍元首相と「放送の政治的公平性」

     ネットと放送はこの30年、様々な形で絡み合ってきた。両者が競合と融合を重ねる中で、放送はある時、自らの在りようについて強く再確認をする機会を得た。

     それは戦後最長の政権運営を果たした、故・安倍元首相が首相の座にあった時の出来事だった。安倍首相はその時、改革(私は改変と称するが)の名の下に「放送制度」を変えることに力を傾注した。2017年秋から始まり、2018年初夏まで続く一連の出来事だった。

     政権はその終盤で「綻び」が目立ち始めていた。二つの学校法人を巡る疑惑、「モリカケ問題」は綻びの最たるものだった。「森友学園」への国有地払い下げと「加計学園」の獣医学部新設で安倍政権が彼らに特別な便宜を図ったのではないかという批判の声が上がり、テレビ報道でもそうした批判が増えていった。それは安倍首相には耳障りな話であり、彼はそれを嫌った。

     そして、テレビと距離を置き、それに代わるものとしてインターネットテレビを選び、そこにナマ出演して自らの主張を滔々と述べた。2017年10月のことだ。この出来事はまた、安倍首相がその後、「嫌悪する」テレビに一線を引き、「好感する」ネットへと傾斜していくきっかけにもなった。

     この出来事には伏線がある。首相のネットテレビ出演より1年8か月前の2016年2月のことだ。この時、「放送の政治的公平性」について国会で盛んな議論が行われていた。問題を提起したのは安倍官邸だった。官邸は、いくつかのテレビ番組の中に見られた政権に対する批判的なコメントやインタビューについて度々クレームをつけていた。これを受け、高市早苗総務相(当時)は、テレビの政治的公平性は、「放送事業者の番組全体」を見て判断するという従来の法的解釈を変更して、「個別の番組」によって判断することもあると国会答弁した。

     つまり、ひとつの放送局の放送全体という大きな括りの中で政治的公平性を判断するのではなく、個別具体的なひとつの番組において、もしも一方に偏った意見が放送された場合は、これを法律違反の処罰の対象とすることを示唆したのだ。

     この解釈変更はテレビ報道に対する圧力ではないかと当然ながら各方面で議論を呼んだ(因みに、その一連の出来事の裏側は、7年後の2023年の国会で野党が提出した総務省の「内部文書」で暴露され、政権に批判的なテレビ番組に反発していた当時の首相官邸の内情や、横暴な官邸官僚による圧力の実態が白日の下に晒されている)。

    放送法4条の「立法事実」

     2016年国会の話を続ける。高市総務相答弁はこの時、放送法の根幹を成す「放送法4条」の解釈にも及んでいた。

     放送法4条にはこう記されている。

    「放送番組の編集に当たっては──
    (1)公安及び善良な風俗を害しないこと。
    (2)政治的に公平であること。
    (3)報道は事実をまげないですること。
    (4)意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」

     これらの条文は当然であり、至極適正なものだと思う。私たち放送人もこの放送法4条を「倫理規定」として支持し、順守してきた。そして、テレビの「編集権」の根幹を成すものとしてきた。

     しかし、安倍官邸と総務相は、この4条解釈に従来とは異なる見解を示して放送法支持者を揺さぶった。新たな政府見解は、放送法4条を「倫理規定」ではなく、違反に際して行政処分(停波)を行うための「処罰の根拠」であるとした。この見解が先述した2016年通常国会の高市総務相答弁に盛り込まれた。

    「処罰の根拠法」答弁によって、放送業界の中には前後の見境なく、処罰回避のために「放送法4条廃止」を唱えるものも現れるなど混乱が生じた。

     しかし、放送法4条の主旨が「倫理規定」なのか「処罰の根拠」なのかは明らかだった。放送法はその「立法事実」に基づいて考えれば、放送が政府と距離を保ち、自らを律していくための「倫理規定」であると解釈することが妥当だったからだ。

     立法事実とは何か。法律を考える時に私たちは先ず、その法律が制定された当時、どんな事実があり、どんな理由で何を目的として法律が作られたのかに目を向けなければならない。その事実が立法事実だ。放送法については、立法の背景に、放送が先の戦争で「大本営発表」を垂れ流し、戦争遂行のための一翼を担ってしまったことに対する反省があった。そして、その反省の上に立って放送は政府と距離を置き、「自律」するべきだという考えが打ち出されていた。

     原案を示したのは終戦直後に日本を占領したGHQだった。彼らは日本の民主化にあたって、放送局が「政治的公平」「事実報道」を自律的に守っていくことで民主主義の実現に貢献するものだと確信していた。そして、その象徴が「放送法4条」だった。

     4条ばかりではない。放送法にはまた、「字幕・解説放送」(4条の2)、「訂正放送」(9条)、「放送があまねく受信できるように努力する義務」(92条)、「マスメディア集中排除原則」(93条)といった、普段は目立たないが、しっかりと国民生活や福祉に寄与している条文も数多く存在する。

     それらの法制度は放送に対する国民の信頼を担保するものである。そうした立法事実や放送の信頼性に対する議論は置き去りにされたまま、安倍官邸の放送法改変の動きは徐々に高まり、2017年秋、遂にその「サブマリン」が大きく浮上した。

    「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍首相にとって、GHQの置き土産である「放送法」は現行憲法と同様に元来、変えるべき目標だったのかもしれない。

    放送法改変論議への反発

     安倍首相は決して「メディア嫌い」ではなかった。その陽性な性格はむしろテレビに向いていた。しかし、同時に彼は為政者だった。放送法の解釈変更やネットテレビへの傾斜といった一連の出来事は、耳の痛い意見は遠ざけ、都合のいい意見には耳を傾けたい、傍に置きたいというものだ。その思いは古今東西の為政者の生理と合致する。

     2017年10月のインターネットテレビ出演後に首相が発した言葉にテレビ界は震撼した。

    「ネットテレビには放送法の規制が掛からない。しかし、視ている人たちにとっては地上波もネットテレビも全く同じだ。日本の法体系が追いついていない状況だろうと思う。電波においても思い切った改革が必要だと思う」  

     首相はそう述べて、現行放送法を変える意向を示した。彼の改変論は、テレビが戦後60余年、順守してきた「公平」「公正」「事実の希求」という自律的な規律を破棄させ、ネットと同じように「規制がなく」「恣意的な」メディアに変えてしまおうというものだった。その改変発言は止まなかった。

    「通信と放送の垣根がなくなる中、電波の有効利用のため放送事業の在り方の大胆な見直しも必要だ」(未来投資会議 2018年2月1日)

    「ネットに新たな規制を導入することは全く考えていない。米国は公平性のフェアネス・ドクトリンを止めた。『自由に主張してください。その中で視聴者が選択すればいい』ということになった。テレビに規制が必要という人がいるが、そういうことも含めて規制改革推進会議で議論していきたい」(衆院予算委員会 2018年2月6日)

     2018年3月の共同通信の特報によれば、放送制度改変の方針は次のようなものだった。

    ・通信と放送で制度が異なる規制・制度を一本化する。
     放送法4条などを撤廃する。放送の著作権処理の仕組みを通信にも展開する。
    ・放送のソフト・ハード分離を徹底し、多様な制作事業者の参入を促す。
    ・NHKは公共放送から公共メディアへ移行させ、ネット活用を本格化させる。
     但し、NHKについては放送内容に関する規律は維持する。
    ・多様な事業者が競い合い、魅力的な番組を消費者に提供できる成長市場を創出する。
    ・電波放送に過度に依存しない番組流通網を整備する。

     これにより国民の財産である電波の有効活用を一層可能にする。

     これらの方針は、安倍政権が主宰する「規制改革推進会議」で議論するとも報道された。その一方で「隠れた目論見」として、インターネット優遇の新法も検討されていた。それは次のようなものだ。

    ・ネットと放送の異なる規制を一本化し、放送法を撤廃する(放送法撤廃)。
    ・放送に認められた簡便な著作権処理をネットにも適用する(著作権者の権利制限)。
    ・ハード、ソフトの分離で放送のメディア・パワーを弱体化させる(垂直統合の廃止)。
    ・ソフト事業者は免許不要として、希望すれば、同一条件で放送波を使える(放送事業者の弱体化と平準化)。

     そこには放送を骨抜きにし、同時にネットの伸張を図る意図が明確に示されていた。

     そして、「NHKとネットがあれば、民放は不要」と言い切っているかにみえた。改変案はこれ以外にも「外資規制撤廃」という国の安全保障に関わる問題や、空いた周波数のモバイル転用というネット主導の市場経済主義も盛り込まれる運びだった。

    メディア界重鎮の説得

     こうした安倍首相の放送制度改変に民放連や在京テレビ各社は激しく反応した。

     日本テレビ・大久保社長(当時)は「放送が果たしてきた公共的役割と、放送と通信の違いについて考慮がされていない」と強く反発し、民放連幹部も「全く容認できない。国民の健全な世論形成に大きな影響がある。規制緩和や自由な言論という『甘言』の裏で国民生活をないがしろにする、悪しき市場経済の導入が考えられている」と批判した。

     別のキー局幹部も「政権は自分の意向を代弁してくれる放送局を作りたいのではないのか」と首相の真意を訝(いぶか)った。マスメディアの先輩格である新聞もこぞってこの改変論に反対論調を採った。テレビの役割、在り方については新聞も全く軌を一にしていた。

     論戦の最中、安倍首相と民放連首脳が意見交換で会食の席を持ったが、首相は頑なに持論を展開して譲らず、民放連首脳も真っ向から反対論を述べたため、穏やかに意見を交換するはずだった会食の席が激しい議論の場になってしまったというエピソードもある。

     安倍首相は自ら提唱する放送制度改変に固執し続けた。しかし、言論界をリードする新聞、改変の当事者であるテレビの「安倍包囲網」は着実にその網を狭めていった。それに加えて永田町では野党各党がこぞって反対の論陣を張った。

     そして、とうとう政府部内でも野田聖子総務相(当時)が首相の考えに否定的な見解を示すなど、改変案に「無理筋」の空気が漂った。さすがの安倍首相も、ここに至ってこの改変論を進めるのは困難と理解した。彼は持論を曲げなかったものの、当初予定していた「規制改革推進会議」での議論を断念した。

     最終局面で首相に矛を収めさせたのは、彼が敬愛するメディア界の重鎮の「説得」だったと言われている。安倍首相もメディアとの全面戦争は回避せざるを得なかったのだ。

     2018年6月に発表された「規制改革推進会議」の答申に放送法改変案は見当たらなかった。2023年6月の最終答申にも「放送コンテンツをネットで配信する基盤を整備すること」といった当たり障りのない文言だけが記され、当初の過激な民放不要論も影を潜めていた。放送業界を大きく揺さぶった「安倍ショック」はこうした収拾した。そして、放送制度改変論は一旦、棚上げされ、それが再燃する気配は当面の議論からは消えた。

    「自分たちは『ゆでガエル』になっていないでしょうか」己の存在意義を見失うテレビマンも…それでも「地方局」が絶対に必要な理由〉へ続く

    (根岸 豊明/Webオリジナル(外部転載))

    安倍元首相はメディアをどう変えようとしていたのか? ©getty


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    「テレビ業界の転換点: NHKとネットの台頭が民放に与える影響」


    1958年5月、父の安倍晋太郎が第28回衆議院議員総選挙に立候補し初当選した。幼いころは野球選手や、テレビを見て刑事になることに憧れていた。 成蹊小学校3年生の1963年11月、父の太郎が落選。このため両親は東京を離れ、選挙区の山口県にいることが多くなった。安倍家は寛信と晋三
    543キロバイト (74,926 語) - 2024年1月20日 (土) 11:43


    NHKとインターネットメディアの成長が日本の民放テレビ業界にもたらす影響に焦点を当てます。近年、NHKのサービスの充実とオンラインストリーミングの普及が、従来の民放テレビ局のビジネスモデルにどのような挑戦を与えているのかを詳しく探ります。また、視聴者の嗜好の変化、広告市場への影響、そして民放が直面する新たな競争環境についても考察します。さらに、テレビ業界全体がこの変化にどのように対応しているか、今後のテレビメディアのあり方についても議論します。

     2022年に亡くなった、安倍晋三元首相が「嫌悪する」テレビに一線を引き、「好感する」ネットへと傾斜していった出来事とは――。放送法を権力者の都合のいいように改変しようとした「安倍ショック」の内幕を、ジャーナリストの根岸豊明氏の新刊『テレビ局再編』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

    安倍元首相と「放送の政治的公平性」

     ネットと放送はこの30年、様々な形で絡み合ってきた。両者が競合と融合を重ねる中で、放送はある時、自らの在りようについて強く再確認をする機会を得た。

     それは戦後最長の政権運営を果たした、故・安倍元首相が首相の座にあった時の出来事だった。安倍首相はその時、改革(私は改変と称するが)の名の下に「放送制度」を変えることに力を傾注した。2017年秋から始まり、2018年初夏まで続く一連の出来事だった。

     政権はその終盤で「綻び」が目立ち始めていた。二つの学校法人を巡る疑惑、「モリカケ問題」は綻びの最たるものだった。「森友学園」への国有地払い下げと「加計学園」の獣医学部新設で安倍政権が彼らに特別な便宜を図ったのではないかという批判の声が上がり、テレビ報道でもそうした批判が増えていった。それは安倍首相には耳障りな話であり、彼はそれを嫌った。

     そして、テレビと距離を置き、それに代わるものとしてインターネットテレビを選び、そこにナマ出演して自らの主張を滔々と述べた。2017年10月のことだ。この出来事はまた、安倍首相がその後、「嫌悪する」テレビに一線を引き、「好感する」ネットへと傾斜していくきっかけにもなった。

     この出来事には伏線がある。首相のネットテレビ出演より1年8か月前の2016年2月のことだ。この時、「放送の政治的公平性」について国会で盛んな議論が行われていた。問題を提起したのは安倍官邸だった。官邸は、いくつかのテレビ番組の中に見られた政権に対する批判的なコメントやインタビューについて度々クレームをつけていた。これを受け、高市早苗総務相(当時)は、テレビの政治的公平性は、「放送事業者の番組全体」を見て判断するという従来の法的解釈を変更して、「個別の番組」によって判断することもあると国会答弁した。

     つまり、ひとつの放送局の放送全体という大きな括りの中で政治的公平性を判断するのではなく、個別具体的なひとつの番組において、もしも一方に偏った意見が放送された場合は、これを法律違反の処罰の対象とすることを示唆したのだ。

     この解釈変更はテレビ報道に対する圧力ではないかと当然ながら各方面で議論を呼んだ(因みに、その一連の出来事の裏側は、7年後の2023年の国会で野党が提出した総務省の「内部文書」で暴露され、政権に批判的なテレビ番組に反発していた当時の首相官邸の内情や、横暴な官邸官僚による圧力の実態が白日の下に晒されている)。

    放送法4条の「立法事実」

     2016年国会の話を続ける。高市総務相答弁はこの時、放送法の根幹を成す「放送法4条」の解釈にも及んでいた。

     放送法4条にはこう記されている。

    「放送番組の編集に当たっては──
    (1)公安及び善良な風俗を害しないこと。
    (2)政治的に公平であること。
    (3)報道は事実をまげないですること。
    (4)意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」

     これらの条文は当然であり、至極適正なものだと思う。私たち放送人もこの放送法4条を「倫理規定」として支持し、順守してきた。そして、テレビの「編集権」の根幹を成すものとしてきた。

     しかし、安倍官邸と総務相は、この4条解釈に従来とは異なる見解を示して放送法支持者を揺さぶった。新たな政府見解は、放送法4条を「倫理規定」ではなく、違反に際して行政処分(停波)を行うための「処罰の根拠」であるとした。この見解が先述した2016年通常国会の高市総務相答弁に盛り込まれた。

    「処罰の根拠法」答弁によって、放送業界の中には前後の見境なく、処罰回避のために「放送法4条廃止」を唱えるものも現れるなど混乱が生じた。

     しかし、放送法4条の主旨が「倫理規定」なのか「処罰の根拠」なのかは明らかだった。放送法はその「立法事実」に基づいて考えれば、放送が政府と距離を保ち、自らを律していくための「倫理規定」であると解釈することが妥当だったからだ。

     立法事実とは何か。法律を考える時に私たちは先ず、その法律が制定された当時、どんな事実があり、どんな理由で何を目的として法律が作られたのかに目を向けなければならない。その事実が立法事実だ。放送法については、立法の背景に、放送が先の戦争で「大本営発表」を垂れ流し、戦争遂行のための一翼を担ってしまったことに対する反省があった。そして、その反省の上に立って放送は政府と距離を置き、「自律」するべきだという考えが打ち出されていた。

     原案を示したのは終戦直後に日本を占領したGHQだった。彼らは日本の民主化にあたって、放送局が「政治的公平」「事実報道」を自律的に守っていくことで民主主義の実現に貢献するものだと確信していた。そして、その象徴が「放送法4条」だった。

     4条ばかりではない。放送法にはまた、「字幕・解説放送」(4条の2)、「訂正放送」(9条)、「放送があまねく受信できるように努力する義務」(92条)、「マスメディア集中排除原則」(93条)といった、普段は目立たないが、しっかりと国民生活や福祉に寄与している条文も数多く存在する。

     それらの法制度は放送に対する国民の信頼を担保するものである。そうした立法事実や放送の信頼性に対する議論は置き去りにされたまま、安倍官邸の放送法改変の動きは徐々に高まり、2017年秋、遂にその「サブマリン」が大きく浮上した。

    「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍首相にとって、GHQの置き土産である「放送法」は現行憲法と同様に元来、変えるべき目標だったのかもしれない。

    放送法改変論議への反発

     安倍首相は決して「メディア嫌い」ではなかった。その陽性な性格はむしろテレビに向いていた。しかし、同時に彼は為政者だった。放送法の解釈変更やネットテレビへの傾斜といった一連の出来事は、耳の痛い意見は遠ざけ、都合のいい意見には耳を傾けたい、傍に置きたいというものだ。その思いは古今東西の為政者の生理と合致する。

     2017年10月のインターネットテレビ出演後に首相が発した言葉にテレビ界は震撼した。

    「ネットテレビには放送法の規制が掛からない。しかし、視ている人たちにとっては地上波もネットテレビも全く同じだ。日本の法体系が追いついていない状況だろうと思う。電波においても思い切った改革が必要だと思う」  

     首相はそう述べて、現行放送法を変える意向を示した。彼の改変論は、テレビが戦後60余年、順守してきた「公平」「公正」「事実の希求」という自律的な規律を破棄させ、ネットと同じように「規制がなく」「恣意的な」メディアに変えてしまおうというものだった。その改変発言は止まなかった。

    「通信と放送の垣根がなくなる中、電波の有効利用のため放送事業の在り方の大胆な見直しも必要だ」(未来投資会議 2018年2月1日)

    「ネットに新たな規制を導入することは全く考えていない。米国は公平性のフェアネス・ドクトリンを止めた。『自由に主張してください。その中で視聴者が選択すればいい』ということになった。テレビに規制が必要という人がいるが、そういうことも含めて規制改革推進会議で議論していきたい」(衆院予算委員会 2018年2月6日)

     2018年3月の共同通信の特報によれば、放送制度改変の方針は次のようなものだった。

    ・通信と放送で制度が異なる規制・制度を一本化する。
     放送法4条などを撤廃する。放送の著作権処理の仕組みを通信にも展開する。
    ・放送のソフト・ハード分離を徹底し、多様な制作事業者の参入を促す。
    ・NHKは公共放送から公共メディアへ移行させ、ネット活用を本格化させる。
     但し、NHKについては放送内容に関する規律は維持する。
    ・多様な事業者が競い合い、魅力的な番組を消費者に提供できる成長市場を創出する。
    ・電波放送に過度に依存しない番組流通網を整備する。

     これにより国民の財産である電波の有効活用を一層可能にする。

     これらの方針は、安倍政権が主宰する「規制改革推進会議」で議論するとも報道された。その一方で「隠れた目論見」として、インターネット優遇の新法も検討されていた。それは次のようなものだ。

    ・ネットと放送の異なる規制を一本化し、放送法を撤廃する(放送法撤廃)。
    ・放送に認められた簡便な著作権処理をネットにも適用する(著作権者の権利制限)。
    ・ハード、ソフトの分離で放送のメディア・パワーを弱体化させる(垂直統合の廃止)。
    ・ソフト事業者は免許不要として、希望すれば、同一条件で放送波を使える(放送事業者の弱体化と平準化)。

     そこには放送を骨抜きにし、同時にネットの伸張を図る意図が明確に示されていた。

     そして、「NHKとネットがあれば、民放は不要」と言い切っているかにみえた。改変案はこれ以外にも「外資規制撤廃」という国の安全保障に関わる問題や、空いた周波数のモバイル転用というネット主導の市場経済主義も盛り込まれる運びだった。

    メディア界重鎮の説得

     こうした安倍首相の放送制度改変に民放連や在京テレビ各社は激しく反応した。

     日本テレビ・大久保社長(当時)は「放送が果たしてきた公共的役割と、放送と通信の違いについて考慮がされていない」と強く反発し、民放連幹部も「全く容認できない。国民の健全な世論形成に大きな影響がある。規制緩和や自由な言論という『甘言』の裏で国民生活をないがしろにする、悪しき市場経済の導入が考えられている」と批判した。

     別のキー局幹部も「政権は自分の意向を代弁してくれる放送局を作りたいのではないのか」と首相の真意を訝(いぶか)った。マスメディアの先輩格である新聞もこぞってこの改変論に反対論調を採った。テレビの役割、在り方については新聞も全く軌を一にしていた。

     論戦の最中、安倍首相と民放連首脳が意見交換で会食の席を持ったが、首相は頑なに持論を展開して譲らず、民放連首脳も真っ向から反対論を述べたため、穏やかに意見を交換するはずだった会食の席が激しい議論の場になってしまったというエピソードもある。

     安倍首相は自ら提唱する放送制度改変に固執し続けた。しかし、言論界をリードする新聞、改変の当事者であるテレビの「安倍包囲網」は着実にその網を狭めていった。それに加えて永田町では野党各党がこぞって反対の論陣を張った。

     そして、とうとう政府部内でも野田聖子総務相(当時)が首相の考えに否定的な見解を示すなど、改変案に「無理筋」の空気が漂った。さすがの安倍首相も、ここに至ってこの改変論を進めるのは困難と理解した。彼は持論を曲げなかったものの、当初予定していた「規制改革推進会議」での議論を断念した。

     最終局面で首相に矛を収めさせたのは、彼が敬愛するメディア界の重鎮の「説得」だったと言われている。安倍首相もメディアとの全面戦争は回避せざるを得なかったのだ。

     2018年6月に発表された「規制改革推進会議」の答申に放送法改変案は見当たらなかった。2023年6月の最終答申にも「放送コンテンツをネットで配信する基盤を整備すること」といった当たり障りのない文言だけが記され、当初の過激な民放不要論も影を潜めていた。放送業界を大きく揺さぶった「安倍ショック」はこうした収拾した。そして、放送制度改変論は一旦、棚上げされ、それが再燃する気配は当面の議論からは消えた。

    「自分たちは『ゆでガエル』になっていないでしょうか」己の存在意義を見失うテレビマンも…それでも「地方局」が絶対に必要な理由〉へ続く

    (根岸 豊明/Webオリジナル(外部転載))

    安倍元首相はメディアをどう変えようとしていたのか? ©getty


    (出典 news.nicovideo.jp)

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